今日の名言をお届けします。今回は、宮部みゆきさんの小説「模倣犯」より、有馬義男の言葉。
今日の名言
中居正広さん主演で映画化された、宮部みゆきさんの大ヒット小説「模倣犯」。残酷な犯罪もので、大長編。とても面白く、長いのに、一気に読んでしまいます。でも、読んでいて苦しくなるシーンも、たくさんありました…。
今回の名言の主は、その作中の重要人物であり、被害者の親族であるおじいちゃん、有馬義男さん。犯人に翻弄されながらも、苦しみを胸に秘め、取り乱すことなく、冷静に状況に対峙しています。
そんな彼の言葉がこちら。
私は、最近思うようになったことがあります。それは、私たちが過去に行ってきたこと(もしくは、行わなかったこと)って、あとでどれだけ後悔しようが、そのときは、それしかできなかったのではないか、ということです。なんど同じ状況になっても、未来を知らないかぎり、なんどでも同じ行動を取るだろう、と思うのです。
たとえば、友達が事故にあったとします。事故にあう危険性を知っていたのに、自分は止めなかった…。
もしくは、受験に落ちた。受験の難しさを知っていたのに、自分が納得できるまで勉強しなかった…。
これらは、共に「自分はその重要さを知っていた」と本人は考え、「それに見合うことをしなかった」として後悔します…。
でも本当は、そのときの自分には、行動に移せるほどに(頭ではなく、身体が反応するほどに)、その重要さを理解していなかった、と思うのです。
そのうえ、そのときまでの日常の流れ、経験、思考、環境、気温、体調、心理面の健康状態などなど、それらすべての条件が、その判断に影響をあたえていただろう、とも思います。
だとしたら、なんらかの条件が変わらない限り、なんどその状況になっても、同じです。だから、それは「運命」とも言えます。そうなるべく決まっていた…。
そのようなことを重ね、「後悔する」という経験をくりかえすうちに、時が熟し、ようやく、後悔しない行動を起こせる「瞬間」が到来する、のだと思います。その瞬間は、次かもしれないし、これから3回後、もしくは42回後、もしくは251回後かもしれません。
いずれにしても、認識や理解、環境、さまざまな条件から、そのときには、その行動しかとれない。さまざまな条件のなか、人は常に最大値を行動しているのが、「日常」なのかも知れません。
ひとつの名言にこだわり、記事を書いています。最近「ぼやき」になりがちで申し訳ありません。
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